おそらく、病気のせいで周囲の些細な動きや音に過敏になっていたのだろう。突然机の上のものをなぎ払い、筆箱を床に叩きつけられ、飼っていた犬が浴槽に沈められるのを見るのを強いられた。宿題の漢字ドリルを引きちぎられたあまりの衝撃と恐怖に椅子から身じろぎできずにいたら「なに被害者面してんだよお前がいなければ俺はこんなことにならなかったのに」それが日常だった。でも30分後には「あんなことして俺は父親失格だ、お前だけが生き甲斐だ」と言ってくれた。だから、いつでも笑顔でいれるようになったのに、無邪気に抱きついたり年相応のスキンシップをとろうとしたのに、次は「俺は人の顔色を伺う奴が一番嫌いだ」なんてじゃあどうすればよかったのだろう、もう答え合わせはできない。歳をとるごとに性格も顔も父親にそっくりになってきた。怖い。笑顔でいればそれなりに人に好かれるようになった。しかし数ヶ月後には貼り付けただけの笑顔には醜い亀裂が入り剥がれ落ち、大切で近しい人ほど私の激情と虚の波についてこれなくなり離れていく。私が父親を恐れ、逃げ、見捨てたツケを今払っている。

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ああああ

 

 淡い桃色をした海に浮かんでいる。瞼を開き空があるはずの上空を確かめると、太陽すらない、どこまでも薄桃色の虚空が続いている。舐めてはいないけれど、この海水はきっと甘い。不意に人差し指が柔らかく揺蕩うものに触れた。愛おしいあなたの襟足だと感じた瞬間、世界は白い壁に限定され、解像度の荒い白いブロック状となり崩れ落ちた。

 押し付けられるような圧を感じ、二度目の瞼を開いた瞬間目に入ったのは無機質なコンクリートの天井だった。ダクトが様々な方向に角度を変え張り巡らされている。目尻を伝い枕に染み込む液体を手の甲で拭いiPhoneを手に取る。5月9日水曜日 6:21と表示されたのを確認し電源を切った。シーツを抱き寄せ、肩周りを包み込みベッド脇の小窓に近寄ると、冷たい空気が頬の皮膚を刺す。結露した窓を拭うと灰色の靄に視界は閉ざされた。

 未曾有の大寒波が世界を襲ったのは3月31日であった。日本は北海道から侵食されていき、桜は美しい八分咲きのまま凍りつき、樹木の新芽は絶え間なく降り注ぐ、無慈悲とも言える雪に押しつぶされた。

 5月1日、秩序立った生活を営むことは不可能となった。交通機関は無期限の運休を発表し、家屋の修復も手入れも道路の補修も天候の悪化に追いつかなくなった。金のある者は危機を察するやいなやまだ寒波に襲われていない南国へ避難し、残された者は世界の科学力を信じ、また穏やかな春が訪れることを祈りながら静かに終焉を迎えようとしていた。

 

 死ぬつもりだった。餓死か凍死か、残された道はこの二つしか存在しないはずだった。 なんとなく夢の中で人差し指に触れた髪の感覚を反芻する。大きな空白感、喪失感とともに取り残されてしまったような、不足。不足は強迫観念となり責め立てた。探しに行こう。あらかじめ、失われているものを探す。それがなにかは、知らない。

持っている中で一番大きいリュックサックにあるだけ全部の食料を詰める。水、カロリーメイト。あとは懐中電灯。コートのチャックを上まで閉め、マフラーで目の下まで覆った。
外は案の定一面雪景色であったが、誰かが雪をかき分けて作ったであろう道がかすかに残されていた。吹雪は一時的に収まっているようだ。天候が悪化しないうちに地下鉄を目指す。
地下鉄の駅構内は雪に侵食されておらず閑散としていた。線路に降り立ち池袋方面へと歩き出す。

途中、何体か死体を発見した。軽く手を合わせ食料を持っていないか確認し、防寒着を剥ぎ立ち去った。

 新宿で少し休憩することにした。ホームに這い上がりカロリーメイトを貪り、死体から剥いだ衣服を体に巻きつけて倒れ込んだ。

 

 あなたに触れたい。いくつかの臓器や骨、筋肉、血管でいっぱいなはずなのに、いつまでもこの身体はからっぽで、まだ見ぬあなたに満たされたいと待ち焦がれる。ふと、自分が今どこにいるかわからなくなる瞬間がある。あなたもそうあってほしい。同じ気持ちであってほしい。何かでつなぎとめてくれないと、さみしい、探して。

 

 20分間にセットしたiPhoneのアラームが駅構内に鳴り響く。夢と切り離され大脳が五感を伝達する。寒い。疲れにより全身の筋肉が、寒さにより全身の皮膚が痛い。歩きやすい服装に整え線路に降り、再び歩き始める。

 東京駅まで辿り着くとかすかに歌が聞こえた。少女か、変声期を迎える前の少年の声かわからない。だが、とにかくその声のする方へ行けば良い。圧倒的な安堵感に満ち溢れた。

どうやら声はこのデパートの下層から聞こえるようだった。暖房設備も整っていないデパートはどこまでも暗く冷たい。懐中電灯で照らしながら、声のする方へ、下へ下へと階段を下る。下層へ行くほど空気は冷たくなっていった。露出した眼球の奥が痛い。歌声はどんどん大きくなる。大きくなるが歌詞は聞き取れない。ひどく懐かしい歌だとなぜか感じた。

歌に導かれたのか、辺りは凍死体だらけになっていた。全員同じ方向を向き倒れている。懐中電灯で照らし、覗き込むと死体の顔はどれも幸せに満ち溢れた表情のまま凍りついていた。

途中階段が途切れ地下水路が目の前に現れた。声はこの奥から聞こえる。踏み入れたつま先にすでに感覚などなかった。水を掻き分け、重りになる上着は脱ぎ捨てた。夢遊病患者のように、虚ろに歩き続ける。感覚は聴覚のみに集約し、時間、空間の認識もできない。する必要もない。声が近い。近いというよりも脳に直接流れ込んでくるようだ。頭が割れる。

  光も温度もない水路にようやく終わりが訪れた。平らな氷の上に誰かが腰掛けている。歌声はその彼女、もしくは彼から発せられていた。血が通っているかどうかすら怪しいほどまでに透き通った肌、桜色をした爪、華奢な四肢、アプリコットのような色をした瞳に捉えられた。

 瞬間、あたりは淡い桃色をした海に変わった。変わった、というのもおかしい。きっと最初からそうであった。

 

歌声はもう聞こえなくなっていた。ぽつり、と「ぼくら、これからどうしようか」と穏やかな声で問いかけられた。「最初にもどろう」と応えた。最初ってなんだろう。声になっていたかはわからない。なっていなかったとしてもいい。彼を正面からゆっくりと抱きしめ、細く柔らかな襟足を人差し指に絡めとり、瞼を閉じた。

 

メンヘラっぽいなにか

 久しぶりに文章を書く気になったから書いてみようと思う。

 数年前から抗うつ剤を飲み続け今は薄く引き伸ばされた味のしない生活を送っている。

 そんなわたしにも青春のようなものがあった。中学では陸上部に所属していた。特に高い志はなく、ミニバスをやっていたからバスケ部に入ろうか迷ったけれど仮入部期間に顧問の先生が数学教師で、1メートルの竹定規をしならせているのを見た瞬間わたしのバスケ人生は終わり、足の速さだけには自信があったため陸上部に入部した。

入部した陸上部は実績なんてないものの、なぜかカースト上位女子たちの集まりとなり、そこそこに楽しい中学生活を送っていた。

 当然いじめもあった。特に理由もなく、暇つぶし感覚のローテーションで一人ずついじめられていった。二年生の後期、ついにわたしの番が来た。二人組になってくれない、すれ違い様にブスやら死ねやら言われる、示し合わせて一斉に送っているのか、メールで何人もの人間に酷い言葉を浴びせられる。カースト上位女子たちが主犯のせいで部活に留まらずクラスの女の子たちにも無視される。よくあるいじめだが、精神はボロボロにすり減り、毎朝家を出る前に泣いた。

いじめられて一週間が経った頃、あまり部活に出てこない女の子が久しぶりに部活に来てこの異常事態に気づいてくれた。(その女の子を「ナカ」と呼ぶことにする)

 ナカは学年の中心的存在で有名人だった。人懐っこくて明るい美人、発言力もあり生徒会長と付き合っていた。いじめに気づいたナカはそれからずっとわたしと一緒にいてくれた。毎日朝練と午後練に来て二人組になってくれた。わたしとしては、他力本願だけれど発言力のあるナカがいじめの主犯たちに注意をして解決してくれるのを期待していたけれど、ただ一緒にいてくれただけだった。それでも心強かった。

 数日経ったころ、ナカの様子がおかしくなった。授業後の全部の休み時間にわたしのクラスにやって来る。クラスでも孤立していたわたしは、最初はみんなの憧れのナカがわたしと話してくれる優越感にも浸っていた。しかし、授業中に書いているであろう手紙(かなりの文字数)を毎時間渡されるようになってから、嬉しい反面疑問も増えていった。

 加えてナカはよく家に来るようになった。ナカの家とわたしの家は学校を挟んで反対側にある。だからわざわざ学校を通り過ぎてわたしの家に来ることになるのだけれど、毎朝5時に「今から迎えに行くね、一緒に部活行こう」という旨のメールが届き、5時半にはわたしの家の門の前で嬉しそうに立っていた。

 もうその頃にはわたしへのいじめは収まりかけていた。飽きもあっただろうし、ナカがわたしと一緒にいることも抑止力になったのであろう。

 いや、違う、みんなの興味がわたしからナカへ移っただけだった。わたしとナカが一緒にいるようになってからの1ヶ月ほどで、ナカはびっくりするくらい痩せた。ユニフォームの下に履くタイツがゆるゆるなことで一目瞭然だった。

 ナカの彼氏であり、噂の中心にもなる生徒会長が異変に気づかないわけもなく相談を持ちかけてきたため、アドレス交換をした。メールをするようになってすぐ「ナカがリストカットをしている、どうすればいい」という相談を受けた。冬服のおかけで隠れているけれど、ナカが腕を切っていることはわたしも知っていた。と、いうより、ナカはわたしの前で腕を切っていた。

 ナカには父親しかおらず、帰りが遅かったため部活帰りによく家に呼ばれて遊んでいた。 その日も放課後ナカの家に遊びに行き、くだらない話で盛り上がっていた。

 途中、ナカがトイレに行ってくる〜とわたしを部屋に残した。ナカがいるときに部屋をじろじろ見渡すのはよくないと思ってあまり見ないようにしていたけれど、部屋を見渡すだけできちんとした家庭ではないことは明らかだった。この家でいつものみんなに慕われている美人なナカが生活している姿を思い浮かべられなかったし、なにもないようなふりをして清潔感を漂わせ登校するナカを正直気味が悪いと思った。洗濯物があちこちに散らばり、キッチンには洗っていない食器が水を張ったまま積み重なっている。部屋を見渡しながらいつまで経ってもナカがトイレから帰ってこないことに気づいた。

 廊下に出てみると、扉の閉まったトイレから100メートル走の後のような荒い呼吸の音がする。大丈夫?入るよ、鍵開けてと声をかけると鍵の開く音がした。ナカは便座の前でうずくまって背中を大きく上下させていた。かけ寄り背中をさすろうとした瞬間左手首から滴りトイレに溜まって行く血を見た。経血の暗赤色とは違う、鮮やかな赤だった。ナカが緩慢とした動きで、右手に持ったカミソリを左手首に押し付けた瞬間、咄嗟に右手首を掴み、指をこじ開けカミソリを取り上げた。わたしを見上げ、睨みつけるナカの目は涙で赤く血走り腫れていた。荒い息遣いで頬は蒸気しほんのり赤く、今までみた女の子の中で一番綺麗だった。しばらくの間、ナカは立ち尽くしたままのわたしの膝に腕を回し泣いていた。 12月、トイレから見えるリビングの開かれたカーテンの外は18時でも真っ暗で、安っぽい蛍光灯に煌々と照らされている部屋が際立っていた。

 ナカは栄養士になりたいと度々言うようになった。似合うよ、と言いながらもその頃、ナカは世間一般でいう、摂食障害になっていた。家に遊びに行った時「キャベツは食物繊維が豊富だから」と言い、玉のキャベツを机に置き、一枚一枚剥がしながらそのまま咀嚼するナカを黙って見ていた。

 そんな状態になってもナカは相変わらず学年のムードメーカーだった。一時期激痩せして話題になったけれど、過呼吸リストカット摂食障害を匂わせる発言はわたし以外の人間の前ではしなかったし、わたしもナカの名誉のために誰にも言わなかった。

 夜、ナカの彼氏から「相談したいことがある。明日の部活前に生徒会室に寄ってほしい。」というメールが来た。指示通り、生徒会室に行くとメールでもできそうな内容をくどくど話されたため、部活行きたいんだけど、と言うと「実は1年の時からずっと好きだった。」と告白された。もう、うんざりだった。知っていた。お前の視線、ナカがいるくせに垂れ流し続けている好意も。

「告白してきたのはナカの方だった。俺は君のことが好きだったから正直にそう言って断ったんだ。でも、それでもいいから付き合いたいって言われたから、男子たちに人気あるし、付き合った。でももうナカが何を考えてるのかわからない。君と異様に仲が良いのも怖い。」

 ナカは最初から全部知っていた。自分の彼氏がいつになっても自分を好きになってくれないことも、いじめから助けてあげたはずのわたしが何も気づいていないふりをして自分と仲良くしていることも。男の弁明も耳に入らず話半分で生徒会室を飛び出した。扉が閉まる瞬間、男が「もう、別れるから、」とまで発したのを聞いた。

 ノロノロと重い足で午後の部活に参加した。ナカはいつも通り部活でもわたしにべったりだった。その日の部活帰りの誘いは体調不良で断り走って家に帰った。

 わたしはナカが怖くなっていた。自分の気持ちがよくわからないことにも気分が悪かった。朝の迎えも放課後の誘いも断り続けていくうちに、ナカはわたしから離れていき、部活にも来なくなった。

 冬休みになり年末、部活も休み期間に入った早朝にナカからの着信で目が覚めた。今君の家の前にいる、と。謝るタイミングはとっくの昔に過ぎ去っていたし、謝り方もわからなかった。もういっそ殴りでも大泣きでもしてくれた方が楽だと思っていた。玄関のドアを開けた瞬間肺いっぱいに冷たい空気が突き刺さり、正面に佇むナカを見た。

 久しぶり見たナカはやっぱり美人だった。黒髪は少し伸び、前髪はアーモンド型の大きな目の上で切り揃えられていた。赤くて小さい唇からは白い息が出ている。

  ポケットから手を出し、手を繋がされ「散歩しよう」と言われた。何も言えずにただ従うわたしを連れてナカは無邪気に霜柱を踏み、たわいもない話をした。期末テストで数学の点数がクラス1位だったこと、お姉ちゃんと久しぶりに会ったこと。わたしにとって全部どうでもいいはなしだった。早く終わらせて楽になりたかった。

「ナカの彼氏に全部聞いた。何がしたいの?わたしのこと、嫌いなんでしょう?自分の彼氏の好きな人がいじめられてるのを近くで見て楽しかった?私に罪悪感を覚えさせたかった?」

 まくしたてながらも頭は声に出す言葉とは違うことを考えていた。もう、この不思議な関係も終わってしまう。本当はナカと対等な関係でいたかった。憧れていた。ナカの彼氏のことなんてどうでもよかった。ほら、ずっと、お前のこと見下してましたって正直に言えよ、なに被害者面してんだよ、ナカは人気者だしわたしが持ってないもの全部持ってるじゃん。一瞬痛くなってさみしくなるかもしれないけれど、明日からはお互い罪悪感もなく普通に日々を過ごせるようになるよ。

「最初は君が憎かったよ。私の方が可愛いし頭もいいしどうして私より君が彼氏に好かれるのかわからなかった。でもそれを彼氏に言ったら嫌われるのはわかってた。そしていつからか君になろうとしてた。いじめられてるのを見て助けるふりをして近づいた。君の好きな音楽、漫画、口調、髪型、体型、全部真似したら彼氏が好きになってくれると思った。でも君を見るたびに、君が存在する限り、私は君にはなれなくて私は私でしかないことに何度も何度も絶望する。彼氏には振られたの。もう君しかいない。たすけて。」

 

 しゃがみこみ嗚咽しながら話すナカの手を握り、見下ろし、誰にも聞こえないように小さな声で「たすけて」と呟いた。