ああああ

 

 淡い桃色をした海に浮かんでいる。瞼を開き空があるはずの上空を確かめると、太陽すらない、どこまでも薄桃色の虚空が続いている。舐めてはいないけれど、この海水はきっと甘い。不意に人差し指が柔らかく揺蕩うものに触れた。愛おしいあなたの襟足だと感じた瞬間、世界は白い壁に限定され、解像度の荒い白いブロック状となり崩れ落ちた。

 押し付けられるような圧を感じ、二度目の瞼を開いた瞬間目に入ったのは無機質なコンクリートの天井だった。ダクトが様々な方向に角度を変え張り巡らされている。目尻を伝い枕に染み込む液体を手の甲で拭いiPhoneを手に取る。5月9日水曜日 6:21と表示されたのを確認し電源を切った。シーツを抱き寄せ、肩周りを包み込みベッド脇の小窓に近寄ると、冷たい空気が頬の皮膚を刺す。結露した窓を拭うと灰色の靄に視界は閉ざされた。

 未曾有の大寒波が世界を襲ったのは3月31日であった。日本は北海道から侵食されていき、桜は美しい八分咲きのまま凍りつき、樹木の新芽は絶え間なく降り注ぐ、無慈悲とも言える雪に押しつぶされた。

 5月1日、秩序立った生活を営むことは不可能となった。交通機関は無期限の運休を発表し、家屋の修復も手入れも道路の補修も天候の悪化に追いつかなくなった。金のある者は危機を察するやいなやまだ寒波に襲われていない南国へ避難し、残された者は世界の科学力を信じ、また穏やかな春が訪れることを祈りながら静かに終焉を迎えようとしていた。

 

 死ぬつもりだった。餓死か凍死か、残された道はこの二つしか存在しないはずだった。 なんとなく夢の中で人差し指に触れた髪の感覚を反芻する。大きな空白感、喪失感とともに取り残されてしまったような、不足。不足は強迫観念となり責め立てた。探しに行こう。あらかじめ、失われているものを探す。それがなにかは、知らない。

持っている中で一番大きいリュックサックにあるだけ全部の食料を詰める。水、カロリーメイト。あとは懐中電灯。コートのチャックを上まで閉め、マフラーで目の下まで覆った。
外は案の定一面雪景色であったが、誰かが雪をかき分けて作ったであろう道がかすかに残されていた。吹雪は一時的に収まっているようだ。天候が悪化しないうちに地下鉄を目指す。
地下鉄の駅構内は雪に侵食されておらず閑散としていた。線路に降り立ち池袋方面へと歩き出す。

途中、何体か死体を発見した。軽く手を合わせ食料を持っていないか確認し、防寒着を剥ぎ立ち去った。

 新宿で少し休憩することにした。ホームに這い上がりカロリーメイトを貪り、死体から剥いだ衣服を体に巻きつけて倒れ込んだ。

 

 あなたに触れたい。いくつかの臓器や骨、筋肉、血管でいっぱいなはずなのに、いつまでもこの身体はからっぽで、まだ見ぬあなたに満たされたいと待ち焦がれる。ふと、自分が今どこにいるかわからなくなる瞬間がある。あなたもそうあってほしい。同じ気持ちであってほしい。何かでつなぎとめてくれないと、さみしい、探して。

 

 20分間にセットしたiPhoneのアラームが駅構内に鳴り響く。夢と切り離され大脳が五感を伝達する。寒い。疲れにより全身の筋肉が、寒さにより全身の皮膚が痛い。歩きやすい服装に整え線路に降り、再び歩き始める。

 東京駅まで辿り着くとかすかに歌が聞こえた。少女か、変声期を迎える前の少年の声かわからない。だが、とにかくその声のする方へ行けば良い。圧倒的な安堵感に満ち溢れた。

どうやら声はこのデパートの下層から聞こえるようだった。暖房設備も整っていないデパートはどこまでも暗く冷たい。懐中電灯で照らしながら、声のする方へ、下へ下へと階段を下る。下層へ行くほど空気は冷たくなっていった。露出した眼球の奥が痛い。歌声はどんどん大きくなる。大きくなるが歌詞は聞き取れない。ひどく懐かしい歌だとなぜか感じた。

歌に導かれたのか、辺りは凍死体だらけになっていた。全員同じ方向を向き倒れている。懐中電灯で照らし、覗き込むと死体の顔はどれも幸せに満ち溢れた表情のまま凍りついていた。

途中階段が途切れ地下水路が目の前に現れた。声はこの奥から聞こえる。踏み入れたつま先にすでに感覚などなかった。水を掻き分け、重りになる上着は脱ぎ捨てた。夢遊病患者のように、虚ろに歩き続ける。感覚は聴覚のみに集約し、時間、空間の認識もできない。する必要もない。声が近い。近いというよりも脳に直接流れ込んでくるようだ。頭が割れる。

  光も温度もない水路にようやく終わりが訪れた。平らな氷の上に誰かが腰掛けている。歌声はその彼女、もしくは彼から発せられていた。血が通っているかどうかすら怪しいほどまでに透き通った肌、桜色をした爪、華奢な四肢、アプリコットのような色をした瞳に捉えられた。

 瞬間、あたりは淡い桃色をした海に変わった。変わった、というのもおかしい。きっと最初からそうであった。

 

歌声はもう聞こえなくなっていた。ぽつり、と「ぼくら、これからどうしようか」と穏やかな声で問いかけられた。「最初にもどろう」と応えた。最初ってなんだろう。声になっていたかはわからない。なっていなかったとしてもいい。彼を正面からゆっくりと抱きしめ、細く柔らかな襟足を人差し指に絡めとり、瞼を閉じた。